木更津わたくし美術館 館長 中村儀介の10のつぶやき
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中村儀介のつぶやき

1

絵そのものに価値はない。

感じる心に価値はある。

絵はそれを引き出す力を持っている。それが絵の価値といえるのだろう。

2

絵の前で語る必要はない。

ただ、黙ってみていればいいのだ。

見る者の心が自然に動き出すはずだ。

3

絵に高低(たかひく)があるとすれば、その高さは見る者の高さによって決まる。

4

どんな絵にもそれなりの作家の主張がある。

それぞれの見る者は、それぞれの主張を感じることだろう。

5

絵を見る心に知識は邪魔になり感性はそれそのものである。

6

絵は耳で聞くのではなく、自分の目で見るものだ。

7

嫌いな絵がある人は好きな絵がある。嫌いな絵の無い人は好きな絵も無いそんな気がする。

8

絵を見る者は、鑑賞者であって解説者であってはならない。

9

人気のある絵とは、その絵に共鳴する人が多いということであろう。

言い方を変えれば、その絵は平均的又は一般的と言えるのかもしれない。

10

真贋を考える時、その作品は何らかの理由で、本人でさえも判らない場合がある。

要はその作品に、作者の心が感じられるかが、判定の基準となるべきなのだ。

贋作を真作というのは過ちだ。真作を贋作とするのは、もっと大きな過ちだ。

要するに贋作と思われる物、真作と思われる物、判らない物と三つがある事になる。

往々にして鑑定に利害が介入してくる場合がある。困った事だ。

11

コレクションとは一種の病であり、一度感染するとなかなか治らない。

しかしながら、それは楽しみでもあり又反面苦しみでもある。

いつしかコレクションは完成に一歩一歩近づき、時空を超えていくことになる。

12

コレクションもある種芸術といえるのではないか。
違いは「創る」のではなく、「集める」ということだ。

その作品によって「心が動かされる」という点ではどちらも同じなのである。

13

私自身これまで沢山の美をハントしてきたと思っていたが、どうやらハントされていたのは、私の方だったようだ。

14

芸術の素晴らしさは時空を超える力を持っていることだ。

そして我々はそのボディーガードとなりうる。

15

自然を、絵画を、美しいものを、美しいと子どものように感じる心を持ちたい、持ち続けたい。

美術品を通して、その感じる心を多くの人と共有する事がこれからの私の“生きがい”となることだろう。

16

その絵に対する評論とは、小林秀雄が言った様に、その絵を借りて自分を語ることなのだ。

なぜなら、感じているのは自分であり、又、語っているのも自分であるからだ。

17

最近わかった事は、実はわかっていないことの方がわかっている事よりも全然多いのではないかという事だ。

水の中、土の中、宇宙、現在、過去、未来、わかっていない事の方が多いようだ。

多くの人が、ほとんどの事がわかっていると思っている。それもわかった。

18

陶器でいえば、中国物はウッとし、朝鮮物はホッとし、日本の物はウットリする。

私の表現ではそんな風になる。

19

美との出会いは唐突であり、また運命的でもある。こちらから行くのか、あちらから来るのか。

沢山の美との出会いは私の心を幸せで満たしてくれる。多くの美女を独り占めにしているような気分である。ただ昔ほどは、やや感じなくなってきたような気もするのだ。

歳を取ったせいか、あまりに美に囲まれ過ぎているのか、あるいはその両方か。
まったく贅沢な悩みではあるのだが、、、。

20

絵を見る順序は絵から入るのが自然であろう。作家から入りがちではあるが。
それだから、いい絵の中には自然と作者不詳がでてくるのだ。
横山大観もそんな事を言っていた様に記憶している。

21

自分が感じる絵とそうでない絵とがある。
感じない絵とはその中に自分がいないという事だ。
逆に感じる絵とはその中に自分がいるという事だ。
感じる絵を見れば、自然と絵との戦い、共鳴が心の中に始まるのだ。

22

芸術とは、知識でも学問でもなく、感性そのものの表現なのだ。
しかし、芸術も言葉で語ると応々にして本質からずれ、知識のオンパレードになりがちな人がいる。
感性を言葉にすると、あまりに適切なそれは少なく、しかも微妙であり、
相手に伝える事は困難を極める。
それだから芸術そのものが伝え、言葉は要らないという事になるのだ。

23

「精神文明と物質文明の和はいつの時代も常に等しい」という
言葉をどこかで聞いたことがある。
だとしたら、物にあふれる現代は人の心がどこかに追いやられている事になる。
したがって、現代ほど文化、芸術が人に求められている時代はないのではなかろうか?
と思ってしまうのだが・・・。

24

誰でもそうだろうが、1000年先・2000年先・3000年先の世界を一日だけでもいいから見てみたいと思うだろう。
どんな世界だろうかと。
しかし、それは100%不可能なのだ。
反対に1000年前・2000年前・3000年前の残されたものから世界を見ることは100%可能なのだ。
その意味で、中国の古玉・青銅器等は私の夢をかなえてくれる唯一の宝だ。
どう当時の人とそれらが関わっていたかを考える時、私は数千年前の夢の世界に心を置くことになるだろう。
また、その美しさに心が強く惹かれることだろう。

25

絵の価値
5億円で売り買いされた絵があるとする。それは、その絵が5億の価値があるということなのだろうか?いや、5億で買う人がいるということだ。もう一方で、5万円で取引された絵があるとする。
単純に5億÷5万=1万となる。
絵の価値が人の心を動かすという点から見て、5億の絵が5万の絵の1万倍も人の心を動かすとは到底考えられないのだ。
絵に与えられた価格とは、絵の価値ではなく、人がつけた単なる価格なのである。

26

作家とコレクター
コレクターは作家が命がけで描いた作品を集めることが可能である。それも一人の作家ではなく多数の作家、作品を集めることができる。もちろん、それだけの目が当然第一に必要になってはくるのだが。
そういう訳で、コレクターはある意味鑑賞と所有の上で、本当にいい思いができ作家のエキスを吸い尽くしてしまうのかもしれない。作家の一番輝いている時代を後から行って奪ってしまうようだ。美術関係に限って言えば、割のいい恵まれた存在なのだ。
もしかすると、作家からするとズルイと言えるのかもしれない。しかし、一番大きなリスクは金が掛かるということなのだ。そのリスクを除けば、こんなに楽しいことはない。

27

「対象」を描こうとするならば、絵を習うことも必要だろう。「自己の内面」を表現しようとするならば、絵を習う必要はない。むしろ、習えば習うほど後者の表現力は弱くなってしまうだろう。

28

野見山暁治の絵の本質は予測しがたい、宇宙生命的な「妙な動き」にあり、それは又作家自身の「心の動き」でもあるように思われる。静止画ではなく、それは動画であり、まさしく生きているのだ。

29

確か梅野さんがこんなことを言っていた。

「どこまで見えているのか」

今になってその意味がわかるし、私もついそう思ってしまうのだ。

30

人と絵の話をしようとすると、ああでもない、こうでもない、と言い自分の感じている世界からだんだん遠ざかっていってしまう。自分だけで感じていれば、ただそれだけでいい。言葉で表せない処に絵はいるのだから。

31

未知との出会い

最近、野見山暁治の2つの絵に出会った。「伝説のおしまい」と「予想もしない」、大作だ。

ググーッと惹きつけられはしたが、なぜか同時に私を拒むような不思議な想いに襲われた。デ・クーニング、王玉平の時も似たような感覚に襲われたが、それともやや違うようだ。

多分、今までどの絵も入ってこなかった私の深いところの「未知の感性」に触れてきたのではなかろうか?40年近い中でのはじめての衝撃だ。

もしかすると、私の絵のコレクションの最終到達点になるのかもしれない。はっきりとは分からないのだが。そんな気がする。

32

絵にとって、色・形・出来・不出来も大事であるが、その絵が死んでいるか、生きているか。

それが一番大事な事なのだ。

33

見える人には見える

見えない人には見えない

それが美の世界

34

宇宙は「エネルギー」と「空間」という大きな二つの要素で成り立っている。

絵画はその他にさらに人の「感性」という要素が加わってきている。

それらの三つの要素が存在しない絵画は「無意味」と言っていいのだろう。

35

共通の感性と個々の感性

絵の前に立った時、共通の感性と個々の感性が働いてくる。

絵と人によっては、二つの感性の間に差異が生じることだろう。

36

絵を見るのは好きだ

絵を描くのも好きだ

だけど絵を勉強するのは嫌いだ

37

時を越えてきた絵がある

名のある作家の絵がある

しかし、もしかするとそれらは人によって作られた“思い込み”“観念”

そんなものかもしれない

絵を含めすべてはイリュージョンなのか?

38

その絵の中に何が描かれているのではなく、
何を感じさせてくれるかだ。

39

著名な絵描きの
つまらない絵よりは
名もない絵描きの
力の入った絵の方がずっといい。
・・・・・・
それはまちがいない。

40

美を見るには
考えるな、
感じることだ。

41

すべては宇宙の
中にある
すべては心の中にある。

42

この世の神とは
それは宇宙なのかも
しれない。

43

絵には人のために描かれた絵と
自分のために描かれた絵があるようだ。

43

たくさんの想いを連想させてくれる絵
それがいい絵と言えるのかも知れない。

43

柿は柿。
リンゴはリンゴ。
柿はリンゴになれない。リンゴは柿になれない。
それでいい。

46

この世の中には、自分と自分以外の全ての物と
二つに分かれている。
他には何もない。

47

生まれて、死ぬまでに
自分の顔を直接見た人は
まだいない

48

ある絵描きが言っていた。
「我、無名なり、しかしなれど
我、天下に一人なり」と。

49

どんどん文明は進む
その中で人間はまちがいなく退化の方向に向かうだろう

50

現実も幻想の中の「今」なのかもしれない。

51

その絵を見て、作家はどう思っていたか。

それよりも、自分がどう感じるかの方が

大事なことなのだ。

52

絵が先に行く、後から人が追う。

これから先、人は追いつけるのか。

53

芸術家とは 創る人であって、

創られた人で、あってはいけない。

54

動物は、自然は偽る事をしない。

人だけが、ウソを言う、人によって創られた

虚像の世界。我々はその二つの中に居る。

55

収集した絵は 私の所有物ではない

私は未来への単なるメッセンジャーなのだ。

56

五感を研ぎすませ。

その後に第六感がついてくるはずだ。

57

どうしても 解からない時は

動物の世界、自然界を見ることだ。

その中に答えはあるはずだ。

58

まえにも同じ様な事を言ったが、

その絵の評価とは そのまま

その絵を見る人の評価でもある。

59

完成している絵はつまらない

野見山暁治の絵は完成というより

「今まだいくぞ」という感じなのだ。

だからいい。

60

生意気を言うようだが、

ヴァスキィアはエネルギッシュ。

それを洗練させれば王玉平。

サイ・トワンブリーは情緒的。

ポロックもいい。

さらにいいのが、デ・クーニング。

そこに届くのが、野見山暁治。

現存する日本の現代アーティストで

そこまでくる者はいない。

あえて

100年先、200年先に問いたい。

61

最近あるコレクション展でピカソの絵を見た。

ほとんど何も感じなかった。

むしろ、他の絵が良く見えた。

その絵は動きもなく、死んでいる様に見えた。


私がおかしいのか、それとも

あれは、贋物だったのか。

それとも・・・・・・・・。

62

すべての絵は、

具象であっても抽象であっても

その作家の

自画像なのだ

63

自分の気に入った様々なジャンルの絵、不思議な世界にいざなう青銅器、玉、茶碗等の数々。

それらに囲まれた今、私の心の中は幸せな気持ちで満たされている。

64

自分の頭の中の世界と

外の世界と二つしかない

さあ、どちらを描くのだ

65

その人にとって

生まれる前は何もない

死んだ後も何もない

生きている

目の前の今、それがすべてなのだ。

66

絵描きの絵はその作家のスタイルを見つけるまで成長していく、

それが見つかった後は残念なことだが、自己コピーに陥りマンネリ化する傾向にある。

ほとんどのコレクターはそのコピー作品を集めたがっている。

67

すべてに弱ってきているのをこの頃感じるのだが

絵を描こうとすると今迄よりも強く激しく筆が動く。

衰えへの抵抗か、それとも精神は逆流しているのか。

68

絵は何かと問われれば、それは「イリュージョン」と答えるだろう。

なぜならば、人生そのものが「イリュージョン」なのだから。

69

最近注目されてきた「具体」だが、その絵の中に激しさも、創造も感じることができない。

それは中からでたものではなく頭で考えた単なる技法にしか私には思えてならないのだ。

彼等が見つけたものは、新しい絵ではなく新しい技法なのだ。

だから、何も感じない。何も感じさせてくれない。

70

美を追い求め、はぁはぁしながら走ってきた。

ふと立ち止まり、廻りを見渡すとそこには誰もいなかった。

71

絵は、芸術は、人間にだけ与えられた感性の頂き・・・。

それとも、イリュージョン、まやかしか。

あるいは、その両方を共有しているのか。

72

時が流れて、昔の友と会った。
そこには昔の友はいなかった。
お互いさまか。

73

絵を描く時は何も考えない。
絵を見る時、何も思わない。
絵を見た時、何も語らない。

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